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zoom RSS 音楽は良い・・・・

<<   作成日時 : 2014/02/09 14:17   >>

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昨年暮れから腰を痛め、痛み止め飲みながら寝たり起きたりの生活・・気がついたら、早や2月・・・。
しかしその間、楽しい思い出も出来た。

友に誘われ久方ぶりに「アルゼンチン・タンゴ」のコンサートに行ったのである。
今までにない素晴らしいものだった。
最近の舞台は色々と工夫がこらしてあって、映像が司会をするというわけで・・わかりやすくて楽しいものだった。

バンドネオンの物悲しい音も、歌詞が判ると一層悲しくなる・・
途中15分の休憩を挟んで25曲・・・・2時間のドラマだった。
お年寄りも大勢だったが。アンコールは「ラ・クンパルシータ」・・・拍手々で場内は大盛り上がり・・・・・。
最後はスタッフ一同、舞台の端から端まで一列に並んで手を繋ぎ、会場と一緒に拍手拍手!!

腰の痛いの何のその、終わっても暫くじっとしていたかった。
・・・未だに興奮からさめない・・・



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コメント(7件)

内 容 ニックネーム/日時
しばらくご無沙汰しておりました。
腰痛との事、お見舞い申し上げます。
でも、失礼ながら「米寿」のお年で、PCで、しかも、私も出来ないブログをやられている事に感服しておりした。
3月10日に亡き父の生誕100年忌(47回忌)、母の27回忌を、こじんまりとやる事にしました。その時にあなた様の「小倉陸軍造兵廠」でのご経験を添えたいとも思っていたのですが・・・。
何かのご縁でしたが、お元気で。
私の本名は、「竹永尚義」(66歳)です。

追伸:PCをお使いの様なので、お礼の意味で、以下のインタネット・カラオケサイトをご紹介させていただきます。主宰者は、いづれも私より高齢の方です。夫々、長野県松本市、福岡県久留米市出身の方です。是非、お楽しみ下さい。
@「二木紘三のうた物語」、A「たくろうのうた物語」
個人でJASRAC費用などを負担くださっています。
インターネットの検索がお出来になれば(出来ない場合には、若い人に聞いて下さい)、無料で楽しむことが出来ます。
お元気で。


日立市の一爺じ
2014/02/23 15:27
暫くPCから遠ざかっており、失礼いたしました。
造兵廠の事、何がお知りになりたいのですか?

@二木先生とA「たくろうのうた物語」は、小倉のシニア会員になっていましたので、いぜんから楽しませて頂いています。

有難うございました。またおいでを・・・。お休みなさい。
おと
2014/02/23 20:00
お久しぶりです!久々ブログ見てビックリしました・・
腰痛は大丈夫ですか???痛み止めは治る訳ではないので、速く樋口先生に診てもらったほうが良いと思いますよ!!!
もみじ
2014/02/26 09:35
先生おひさしぶりです。

まんまる2ヶ月、一時は咳も出来ない状態でしたが、どうにか寝返りも出来るようになりました。

そろそろ痛みが治まってくれると有難いのですが・・・今日主治医とお話しました。

整形から頂いている痛み止めを止めて、横になるのを止めて・・・食欲が無いので、きっと胃をやられたのでしょうね。
   がんばりまーす。では・・・。

明後日整骨院に行ってみましょう・・・ね。
心配して頂いて、有難うございました。
おと
2014/02/26 15:23
竹永様、こんにちは

造兵廠での思い出は、敵機来襲で事務所迄走っていた事です。
夜になると「B29」が、毎晩やってきます。
警戒警報のサイレンがブー・ブー・と鳴り響きます。
やがて空襲警報のサイレンがぶーーーーと切れ間なしに鳴ります。敵機来襲です。警戒警報で私は家を飛び出します。造兵廠に駆けつけるのです。当時住んでいた到津から造兵廠の一番近い門が木町門です。
門を入ってからまた造兵廠の一番向こうの正門迄走って・走って・本部事務所まで・・。途中、空襲警報に変わり頭の上を敵機がスレスレに飛びます。艦載機です。「操縦士と目が合った」と言っても皆さんお分かりにならないようですが・・・。
終戦まで毎晩でした。では続きはまたの機会に・・・。
おと
2014/03/01 16:45
小倉陸軍造兵工廠のお話、有難うございます。
父は、私が20歳の時、胃がんで亡くなりましたが、昔の親ですから、造兵工廠の話はしたことがありませんでした。よく須賀町5の4の家から、桜ヶ丘小学校の辺に散歩に行きましたが。
ただ、私が小学生低学年の頃だったと思いますが、「小倉(復興?)博覧会」と言うのがあり、父と見に行きました。その会場が、元の工廠跡でした。今でも、その様子、雰囲気をおぼろげながら、思いだせます。
おと様の言われる艦載機(多分、グラマン機)の操縦士と眼が合ったというお話は、後で読んだ色んなドキュメントに書いてありましたので、その恐怖感は理解できます。
そんな時代に戻さない様に、復古調の安部さんの政府を十分に監視して行かねばなりません。孫たちの時代のために。
お話、有難うございました。腰痛が早く回復されます様に。
日立市に一爺じ
2014/03/04 16:58
昭和20年8月当時、バツ一だった父はまだ私の母とは結婚していなくて、木町に母親(私の祖母)と親戚の養女の娘さんと3人で住んでいたそうです。その娘(私から見ると血の繋がらない叔母さん)が、まだ上富野に住んでおられて、そんな話をしていました。
いずれにしても、小倉に原爆が投下されていたら、父はこの世から消えていたでしょう。当然、私も生まれていない。
以上、追記させていただきます。
日立市の一爺じ(追加)
2014/03/04 17:39

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